某学会のニューズレターで、会長が静かな怒りを込めて書いている。


「…平成20年度科研費の申請に際しては、過去3年間に海外から応募がなかった学会機関誌は審査の対象にもならない、という趣旨の説明が学○△興会の方からありました。そこには表面的な形式評価のみがあり、研究水準や内容に対する評価が抜け落ちているのです。…」


「海外からの応募や参加者が多い=国際的」→「価値ある学会活動」


という発想自体は、間違っているとは思わない。問題は、そこから


「それ以外は無価値」


としてしまうところにあるのだろう。
確かに、国際化・世界に開かれた学会にしてゆくのは大事なことであろう(分野によってはその意味での「国際化」は難しい場合もあるだろうが)。だが、だからといってそんな風に「ぶった切る」のはいかがなものかと思う。


私はこの種の「ぶった切りロジック」があまり好きではない。


その昔、大学の某サークルに身を置いているときに、しきりに「ちゃんと考えてるのか」ということを後輩達に問う先輩方がおられた。確かに活動の性格上、「何も考えていない」でいる状態は好ましいことではなかったであろう。


しかしだからと言って、「ちゃんと考えていない奴は無価値」とするのもまた、妙な話である。


第一、そういう人に限って「考えている」ということに関して大変に偏狭な判断を下しがちだ。
すなわち、


「自分たちと同じ考え方をしていない=何も考えていない」


という等式を知らず知らず闇雲に振り回しはじめていても、自分でそれに気づくことができないのである。
これは、過度に自分に自信がある人間が大変にはまりやすい陥穽であると思う。誰だって、自分の考えが一番でそれ以外は愚か、と思いたいのだ。


そうして、集団思想が見事に統制され、原理主義が育まれてゆく。



・・・話がそれてしまった。


冒頭に挙げた方針は(そうはハッキリ言っていないのかもしれないが)使用言語の問題に収斂してゆくだろう。つまり、


日本語は使うな。英語にしろ。


と言っているのと同じことである。(大会にしろ雑誌にしろ、使用言語が日本語だけでは「海外からの応募」はなかなか期待できない)


これを極端なところまで突き詰めると、


日本語で発表したり論文を書いても無意味です。とにかくぜんぶ英語でやりなさい。


ということになるだろう。

「いや、そういう意味では…」と言うかもしれないが、このままの方向で行けば、そういうことにならざるを得ない。


これにより、あらゆる学会で「英語化」が実施されるかもしれない。海外から発表者があろうがなかろうが、とにかく、使用言語を英語にする。学会のサイトでも英語だけを使用して、世界中からのアクセシビリティを高める。


・・・絶対に間違っている、とまでは言わないが、何か釈然としないのはなぜだろう。


たぶん、


「優れた研究能力を有する人はたいてい英語ができる(ものだ)」

から、

「英語ができない人」→「優れた研究能力を有しない人」


という(誤った)推論を背後に感じるからだろう。


「英語はちょっと苦手だが、優れた研究能力を有す(またはそのポテンシャルがある)人」というのも、この世界にはけっこう存在する。(それほど多数派ではないにせよ)

上述の方針にあっては、畢竟、そういう人たちは「切り捨て」である。


「英語のないところに優れた研究成果はない」


のだそうだ。


これだけは断言できるが、


使用言語が英語だからと言って、世界各国から人を呼んでいるからと言って、それだけでは、使用言語が英語でなくて、国内からの参加者のみの学会よりも優れた研究成果が発表されることは保証されない。

(たとえば昨夏に私が参加した、「英語」で「世界中から人の集まった」学会は…以下略)



英語は便利な言語である。特に研究者は、分野を問わず、英語を使えた方がいいに決まっている。そんなことはもうみんな知っている。だから多分、今英語の学習も必死にしている研究者はたくさんいるのだろう(ただの想像だけれど)。


しかし、だからといって、使用言語が日本語の学会(および学会誌)は、そんなに「どうでもいい」のだろうか。同じステイタスで、英語の学会と日本語の学会の両方あっていいと思うのだけれど。それじゃいけないのだろうか。

こう考えたい理由の一つとして、もちろん、上に書いたような実際的な理由(=すぐれた研究能力を掬い取ること)を挙げることも可能だ。しかしそれ以前に、


日本語は私たち日本人の母語だから。


ということもあるんじゃなかろうか。


どんな活動に身を置いていても、母語を使ってもやりたいと思うのが人情でしょう。


もっと言えば、母語で研究活動ができることに誇りを持っていてもいいと思う。


そこには実利的・即物的な理由は必要ない。単なる、心情の問題である。



まあ、超絶的に即物的思考の権化である日本の「上のほう」の方々にすれば、こんなことは一笑に付すにも値しない物言いなのだろうが。


そしてこんなことを言いながら、自分自身、日々英語の学習にも時間を割いているのだが。



ともかく、いかなる事物(人にせよ機関にせよ)を評価する場合にも、無暗に英語をその第一義的フィルターに使う考え方はちょっとどうかな、と思わざるを得ない今日この頃。