3月13日のコメントで書いているものの続きを書きます(コメント欄が大変な長さになってしまったので・・・)
「押せれる」「押せれない」をGoogleしてみると、前者が後者の倍近くの頻度で使われていた(85:49)。そもそも数自体が少ないので何ともいえないけれど、少なくとも僕の「押せれない→押せれる+ない」説は非常に疑わしいものになった・・・
要するに、しつこくまとめると、通りすがりさんに書いて頂いた歴史的変遷を経て「reru」が可能を表すものとして強く認識されるに至ったため、「押せる」ではなく「押せれる」が使われるようになったわけだ(←これはちょっと言いすぎか・・・?)。僕が立てたファンタジック仮説は、このreruの部分を「erの音」ぐらいにしか捉えていなかったため、「否定形の方が肯定形よりも可能形態素を付加する動機が強い」というヘンテコな結論に行ってしまったようだ。

僕のしょうもない説は放っておくとして、議論で出てきた二つの説について。
一つ目は、「「押せる」が一つの動詞に再分析」説、二つ目は「「reru」が可能形態素として定着し、それが五段動詞へ飛び火」説。これらは、一度はコインの表裏のように思ったが(それでコメントにもそう書いてしまった)、実は少し違うものだったことに気づいた。
 僕は最初に前者の説を読んだとき、「押せる」が一つの動詞になったとすると、一体「押す」との意味の違いは何になるのかという疑問を持った。しかし、これは、形と意味が必ず一対一にきちんと対応するはずであるという勝手な仮定に基づいた推論だった。「押す」に「可能」を加えた意味に対応するものが、単一の語彙に対応していても何もおかしなことはない(意味の単位とは独立して音声のレベルだけでユニットが形成されるなんてことは、ごくごく日常茶飯のことなのだ・・・)。
しかし、それはそうなんだとしても、「押せる」が単一のユニットになって「押す」+「可能」の意味を担っていたとすると、そこにさらに「reru」がつく動機は何なのかという疑問が拭えなかった。仮に音のレベルで「見せる」「見せれる」などとの類推関係が成立したとしても、表したい意味があくまで「可能」ならば、これ以上形態素を付加する動機がない・・・という風に、「何か別の形態素を加えて別の形式にする以上、何か元のものとは別の意味機能を担うはずである」というテーゼに追い回されることになった。
一方、「飛び火」説は、「押せる」+「reru(eru?)」ではなく、「押せ(押す)」+「reru」だということになる。つまり「押せれる」は「押せる」のalternativeとして成立したに過ぎないので、「押せれる」の成立の機能的動機は「押せる」同様、「可能を表す」ということで済むのだ。(この後、どちらか一方だけが生き延びるか、機能的棲み分けが起こるかは、また別の興味深い問題である)
どちらの説にも音の類推が関与することはおそらく共通するが、後者ではそこに「可能の意味にする」という動機が維持されている分、より自然なようにも思える。
だが、いずれにせよ「押せる」と「押せれる」というのが少なくとも音声的には別個のユニットであるという視点を保持しておくことは重要だろう。

・・・ふぅ、疲れた・・・(^^;