閑話休題


坂本氏は「ラスト・エンペラー」以降、海外の映画音楽の仕事が―つまりは外国人の映画監督と一緒に仕事をすることが―多い。
ということは、最終的には音楽家に委ねられるとは言え、監督と綿密な打ち合わせをしながら仕事を進めることは避けられない。これだけ聞けば、坂本氏はさぞかし英語(外国語)も堪能なのだろうという想像ができる。いわんや、同氏はもう20年近くニューヨーク在住である。確信は強まるばかりである。

ところが。今までそういったコンテクストにおいて氏が英語を使って監督や他のミュージシャンとやりとりしている映像を何度となく見てきているが、お世辞にも「堪能」と言える感じではない(もちろんきちんと「駆使」しているのではあるが)。基本的に、大変にタドタドシイ。正直、今の僕の方がよほどスムーズに話しているようにさえ思える。

それでも、海外の映画監督たちからの信頼は厚い。最近の映画「SILK」の監督も、両手放しの大絶賛である。

これにはまず、坂本氏が、いろいろ語る前に質の高い作品を作ってしまうということがあるだろう。そして質の高い仕事をするからこそ、言葉が多少うまく喋れていなくとも、周囲は常にその言葉に真剣に耳を傾ける。こういう状況にあっては、流暢に言葉巧みに多くのことを語る必要も機会も生まれてこない。ごく自然の成り行きだろう。

どこかで本人も、「言葉はあまり好きではない、というか信用できない」みたいなことを言っていた(書いていた)気がする。なんとも格好いい。


いっぽうで、僕らは「言語学」なんていう世界に身を置いているから、こういう状況が実現しにくいのは明らかだ。なにせ、言葉の上手さと仕事の質の間の差がかなり小さくなりがちだ。特に英語学なんてやっていると、(特に日本で)その傾向は強い。「おいおい、英語たいして上手く喋れないのに英語の分析とか言われても・・・」となってしまう。どうしても。(実際は、それとこれとは別な場合も少なくないのだけれども。それでも。)


だからこそ、なんだか音楽家(ひいては芸術家)にはなんだか憧れてしまうのでありました。



(余談)
しばじゅんは英語が結構できるらしい。