「外国語」

ええと、13日以降延々とアタマを悩ませてきた「押せれる」問題についてのさらなる見解が生まれたので、提示しておきます(興味ある方はご検討ください)。

端的に言って、「er」でも「reru」でもなく、「ereru」が「可能」の意味に対応すると認識されるようになっているのではないか、というものです。
もし、musicienが当初言っていたように「er」だけが可能形態素と認識していると仮定すると、否定辞がついたときなど「r」音が消えている時(ose-naiなど)にしか説明がつけられないという矛盾に陥りました。また、「reru」が可能形態素になっているとしても、なぜ通常の音韻規則のように(oseruが作られる時のように)「reru」のrは消えずに語幹の方が「ose」になるのかという謎が残ります。また、ここで「oseru」の成立を一旦間におけば解決しそうですが、そうすると、「oseru」が可能の意味を含むため、さらに「reru」をつける動機に乏しいというのは繰り返し述べたとおりです。
では、どうすればよいか。
まず、ラを抜いた「乗せれる」「着せれる」「見せれる」「紛れれる」等等の事例に接するうちに、「ereru」が可能の意味を担っているという再分析をおこない(→er(u)はreruのallomorphである事例(まさに「押せる」など!)があるため、語幹の一部と認識されなくなやすい)、それを「os(u)」に付加して「os+ereru」とした。(「読めれる」でも「書けれる」でも同様に、それぞれ語幹に可能形態素(と認識している)「ereru」をつければできあがる。)
こうすると、五段動詞以外の場合の語幹が、意味をもたない奇妙な音になるという帰結に至りますが(例:「着せれる」ならばkis)、生産性を持つのはあくまでも「ereru」の方だけなので、これはそれほど問題ではないかと(・・・しかも、今気づきましたが上で挙げた例からereruを取って語幹を作ると「乗す」「着す」「見す」「紛る」という風に、古語の動詞にはなってますね。もっと歴史が分かっていれば、さらに面白いことが言えるのかも知れませんが。。。
(しかも、もうこんなことは既に分かっていることなのかもしれません。あくまで日本語研究に関しては素人の人間が勝手気儘に考えたことを書いているだけですので、よりお詳しい方にはどうぞご寛容の心でもって見守っていただければ幸いです・・・)

<注>
上記のアイデアは、とある人(日本語話者)と話している時、その人が「それってereruがくっついてるんじゃない?」と言ったことを基に作成しています。(つまりmusicienが単独で考えたわけではないということです)