言語学の中にいると、ある事実がなぜそうなっているのかだけをひたすら必死で考えてしまうという、悪しき基礎付け主義の泥沼にはまるリスクがある。つまり、説明できる事実の範囲が同じ原理AとBがあった場合、どちらが「心理的実在性が高いか」という基準だけで判断することになる。しかし、である。仮にAとBのどちらかが他方よりも心理的に妥当なものであれば、そちらの方がより広範囲の事実を的確に説明できるはずなのである。つまり、AとBの説明できる範囲がまったく同じであれば、それは事実観察が不十分または不正確であることの現れに他ならない。
・・・というのは自然に気づくはずのことなのに、空中戦だけに命がけになって事実観察を怠る方向に流れる人が多いのはなぜか。ずばり、その方が楽なのだろう。個人的な見解では、当の問題についてあまり十分な情報を吸収していない脳ほど、そういう「楽」をしたがる。自戒を込めてそう思う。僕にはまだ、恐ろしく情報が不足している。
「情報過多」とか「情報が氾濫しすぎて・・・」とか聞くけれど、情報を取り込みすぎてパンクするほど人間の脳は馬鹿ではないはず。結局、思い切って大量の情報を取り込もうとしたことがないから、何を取り込んでいいかが判断できず、結局何も取り込まない所為で、情報の整理力も養われず・・・という悪循環なのではないか。よく分からんけれど、兎に角ガンガン貪欲に吸収してみればいいのではないか。少なくとも、言語研究に関してはそう思う今日この頃。