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- 作者: 池上嘉彦
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/09/10
- メディア: 文庫
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この本の中で最も私を惹きつけたのは、「説明されない美は、私を苛立たせる(Unexplained beauty arouses an irritation in me)」(William Empson)という言葉。
「美」は感じるためのものであり、説明などしようがない、というか、説明したところで、一体何が得られるというのだろう?
そんな風にどこかでニヒリストを気取る自分は確実に、いる。しかし、そのような「美」を説明したい衝動を抑えられなくなる局面もまた、確実にやってくる。
それは多分、「恋」をした時である。
彼は、人であれその他の事物であれ、何かに恋をし夢中になると、自分をそこまで惹きつける当のものの魅力の秘密を解き明かしたくて仕方がないようになる。
そうして、彼は雄弁になる。自分が恋をした対象が有する(はずの)美のメカニズムを、言葉をくだいて説明す始める。できる限り詩的に(私的に)解明しようと躍起になるのだ。時として周囲をも巻き込みながら。やがて、そこまで躍起になる理由が自分でも分からなくなるところまで自分自身を連れてゆく。
そして、ある時ふと気づく。そもそも「美」が自分を惹きつける理由もなければ、そこに説明されるべきメカニズムも存在していなかったということに。
しかし、その頃にはもう、そんなことはどうでも良くなっている。
「私は、美に関わりながら呼吸し、生きている」
そう考えることで、常に彼は自分を幸福の只中に置くことができるからだ。
怖いものを只怖いものそのままの姿と見れば詩になる。凄い事も、己れを離れて、只単独に凄いのだと思えば画になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、そのやさしい所やら、同情の宿る所やら、憂のこもる所やら、一歩進めて云えば失恋の苦しみそのものの溢るる所やらを、単に客観的に眼前に思い浮べるから文学芸術の材料になる。世には有りもせぬ失恋を製造して、自から強いて煩悶して、愉快を貪ぼるものがある。情人はこれを評して愚だと云う、気違だと云う。然し自から不幸の輪郭を描いて好んでその中に起臥するのは、自から烏有の山水を刻画して壺中の天地に歓喜すると、その芸術地の立脚地を得たる点に於て全く等しいと云わねばならぬ。この点に於て世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として常人よりも愚である、気違である。
(夏目漱石『草枕』新潮文庫, pp.34-35)