相反する二人の自分:
イデア先行で、とにかく突拍子もない仮説ばかり立てまくろうとする自分。
事実観察重視で、とにかく言語事実を誠実に追いかけようとする自分。

この二人の自分を弁証法的に止揚してしまえば、形而上学的な本質直観をエポケーして、これまでの研究スタイルそのものをポスト構造主義的に脱構築することができるのだろうか。*1

*1:どの用語も意味を正確に説明できません・笑