・金曜なのに、Eastern Austronesian Languagesの授業がもうないと思うと、少しせつない。あと10週ぐらい受け続けていたかった。そのくらい充実した授業だった。何しろLecturerが三人いるのだ。贅沢すぎる。こんな授業一生受けられないだろう。


・いろいろなものの意味が、後になって「なるほどそういうことだったのか」と思うことって多い。ここに来てから、修士や博士の前半時代に生半可にしか理解していなかった多くの事柄に関してその実感をおぼえた。だからおそらくここで学んだことに関しても数年後に「なるほど」となるのだろう。



・日本語のサイトでTOEICの宣伝をやたら見かけるし、「試験申込締切迫る!」というメールがちょこちょこ来る。というわけで久しぶりにTOEICについて考えた。

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最初に受験したのは7年ぐらい前か。リスニングが全然出来なくて大変ショックだったのを覚えている。それから10か月後、満を持して臨んだ結果は900点台。小躍りして喜んだ記憶がある(青かった…)その後、一年に一、二回ペースで受けていたが、800点台後半と900点台前半を繰り返していた。しかし、ここ二年ほどで、ついに900点台後半になった。ちょっと得意になってきた。「もう何でもできるんじゃないか?」という幻想まで抱いた。そして、オーストラリアに来て、その愚かな幻想は打ち砕かれた。自分はぜんぜん(思っていたようには)英語が喋れなかったのである。


しかし、だからといって「TOEICでいいスコアとってても意味ないからね〜」とは決して思わない(思ったことも確かにあったが)。いいスコアをとれる方がいいに決まっている。もちろん普段から使っていなければ、高得点をたたき出していてもスムーズな会話力にはつながらないのはほぼ間違いないだろう。一見すれば、600点の人と900点の人で、会話の流暢さは大差ないことだって多分にありえそうだ(事実ありえた)。だが、きっかけがあった時にしっかりと力をつけられるのがどちらのスコアの人であるかというのは明らかである。知識だけあってもあまり意味がないのは事実だが、知識はあるに越したことがない、というのはここでも綺麗に当てはまっていると思う。

自分に照らし合わせて考えても、そう思える(というか、そう思うようにしている!w)。比較的短い期間で、多少つっかえながらでも言いたいことがスッと相手に伝わる喋り方ができるようになってきたような気がする。あと、ここに住み始めてから今までで、「お、遅い…」という顔はされることがあっても(最初はずっとそうだった・・・)、「何を言ってるのか(何が言いたいのか)わからんぞ」という顔をされたことは一度もない。これは受験英語から長年に渡って鍛え抜いた文法力と語彙力のお陰だと強く信じている。

あと、「喋る」ことだけに比重をおいて考えすぎるのも損だろう(そう考える人って少なくない気がするのは気のせいだろうか)。「書く」ことだって、同じくらい重要なのだ(特に留学するなら、書く力の方が重要と言っても言い過ぎではない)。個人的な経験では、留学してから英語でメールを書く機会が飛躍的に増し(あるいは自ら機会を増やし)、お陰で英文を書くことは全く苦にならなくなった(辞書も引かなくなった)。で、喋る力があとから徐々についてきたという実感が確かにある。

それに・・・ここからは単なる自分の嗜好のレベルだけれど、「ポテンシャルはあって、あとはそれを少しずつ伸ばす」という状態の方が、その逆よりもずっと素敵だし、自分でやっていて楽めると思う。


・・・というわけで、ようやく自分の「喋れなさ」を気に病まなくなってきた。生来おしゃべりは好きなので、友達といる時なんかはどんどん喋るようになってきた。帰る前に少なくともこの状態にはなりたいと思っていたから、とても嬉しい。

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・・・という話。(TOEICはどこへいった・・・?w)



・『村上春樹にご用心』(内田樹)はまだ読んでいないが、アマゾンのレビューを見ているうちに、なんとなくどういうことが書いあるかぼんやりと予想がついてきた。そして、その内容は概ね好ましいような気がする。最初に読む「ウチダ本」はこれにしよう。