バスにうっかり傘を置き忘れた。
でも、骨もガタガタだったし、かなり長い間使ったものだったから、まあよしとすることにした(運転手さんごめんなさい)。

それはそうと、ちょっと気になった。
一体、この「置き忘れ」をaffordしたのは何だったのだろう?(←お前が不注意だっただけだ)

例えば、ドア(らしきもの)に取っ手(らしきもの)がついていたら、我々はついその取っ手に手をのばして握ってしまう。
この場合、「ドア(らしきもの)の取っ手(らしきもの)が握ることをaffordしている」と言える。


だが、傘をバスに忘れてしまった場合はどうだろう?
この「置き忘れ」という行為をaffordしたのは、傘と言えるだろうか?
バス内という状況だったからこそ忘れてしまった、と考えると、バス車内という状況がaffordしたのか?

それとも、傘を含めたその状況全体がaffordしたのだろうか。

affordance理論は、こういう事例をどう説明するのだろう?

※もちろん↑こういう問い方ではないですけれど(言語学の論文なので♪)、先日書いたものの中にこれと少し絡む記述があります。