「押せれる」のような用法について、とあるところでは、
「押す」+「reru」でできた「押せる」が、一つの可能動詞として認識され、やがて単独の動詞として定着するうちにこれが「可能」を表すということを理解しきれずに、さらに「reru」をつけてしまうようになっている。
という風に説明してありました。
このアイデアをmusicienのそれとの相違は、話者がどれくらい合理的であるかということに関しての見解と思われます。musicienは、「押せる」が「可能」を表すものだという認識が薄れるということはまずないだろうという仮定から出発しました(人間の言語使用がかなりのところまで合理的なものであるという期待がありますw)。それにしても、「押せる」が「可能」を表すと認識されない、つまり「押せる」の機能的側面がはっきりしなくなるというというのは、どういうことなのでしょう?(「押す」と区別がつかなくなるとでも?)
やはり個人的には、他の動詞の可能形からの「音韻上(=形式上)の類推」が主たる動機だと考えたい(そしてこの点では、先日からコメントくださっている全ての方々のアイデアに共通していると思われます)。

それにしても、今回はこの問題で、下手すると自分の研究よりも頭を使ったような気がする(爆)