二週間後にせまった坂本龍一のピアノコンサートのチケットが届いた。今年、フェスティバルホールに行くのはこれで三回目(間違いなく人生最多)。

これだけ長くファンをしているくせに、ライブでサカモトを見たのは1999年のオペラ「LIFE」の時一回きりなので、とても楽しみだ。やはり「/05」の曲を中心にするのだろうか。何にせよ、「Merry Christmas Mr. Lawrence」「美貌の青空」「Lost Theme」「The Sheltering Sky」あたりは是非演奏してくれることを期待。意表を突いて「Intermezzo」とかもないかなぁ…

と、マニアックなことをつらつら書いていても誰も読んでくれないので(汗)、視点を変えて、個人的に感じている、サカモト音楽の魅力について。
よく「グローバルな音楽」「世界中で受け入れられる音楽」というイメージを口にする人がいる。確かにそれは一つの見方かもしれない。でもサカモト氏自身は、きわめて個人的に音楽をやっているだけだと僕は思う。まあ音楽家やミュージシャンなら誰でも結構個人的な作業をするものなのだろうが、氏の場合は、そういった個人的な嗜好や快楽を、完璧な形に具現するまでとことん追求して作曲しているように思うのだ。そこが他の多くの音楽家との決定的な違いだろう。私的な嗜好をとことんまで極めると、逆説的に普遍性が出てくるという奇妙な法則みたいなものが芸術の世界にはあるように思えてならない。

そして、矛盾するようではあるが、サカモト氏の音楽は、簡単に定義ができない。一つ一つの曲にしてもそういうものが多いが、実際、数年のサイクルで作風そのものが変転していく。実は他の音楽家の影響もかなり濃い。それでもなお、サカモトの音楽はサカモトの音楽でしかない。ひとつのジャンルに決して埋没せず、固執せず、それでもなお半端ならぬクオリティの作品を生み出す。
僕は言語学という、まったく違う世界に見を置いてはいるが、そういうところはかなり影響を受けている。「形容詞文やってる人」とか「認知言語学の人」などと定義されることに意味はまったく見出していない。ただ自分が、言語についての真理追究のためにどんな貢献ができるか、ということにしか興味はない。
勝手な想像だが、サカモト氏も、音楽を創ることでどういうことができるのか、ということにしか興味はなくて、「グローバルな映画音楽家」とか「音楽家であり活動家」だとか、はたまた「売れる音楽家」などといったラベルには一切興味がないはずだ。もっと言えば、自分のパーソナリティが人にどんな風に受け止められるかということにさえ全く関心がない、というか、メディア上ではパーソナリティというものを消そうと(あるいは中和しようと)しているようさえ思える時がある。近年、氏は環境問題についてや、非戦を訴えたりと、「活動家」にもなりつつあるのかもしれないが、そこにも、サカモトという一個の人格は存在していない。「サカモトの音楽」だけがあるように、「サカモトの発言」だけがそこにあるだけだと、少なくとも僕には感じられる。

COBAがヒトトヨウの歌を聴いて、「とてもインターナルに歌ってる。やっぱりアートってそうでないといけない」というようなことを言っていたことがある。これには激しく共感した。「ねえねえ、ちょっとこの曲聴いて!」というのは芸術としての音楽本来の姿ではないのだ。