坂本龍一の「美貌の青空」という曲があって、個人的にとても好きなのだけれど、残念ながら今まであまり同意を得られたことはない。
でも、同じくらい好きな小野リサの歌う「Angel's Eyes」などは、逆にいい曲だといわない人はいないと思う。

両者の違いは一体何なのか、考えてみた。

結論。

僕の音楽の好みは、「旋律の美しさ」よりも「気だるさ」に重点が置かれているようだ。
でも、多くの人にとっては旋律が綺麗であることが何にも優先する。だから食い違いが生じてくる。
冒頭の例でいうと、「美貌の青空」は(タイトルからしてそうだけれど)、とてつもなく気だるい。最初から最初まで約6分間、ずっとまどろみの中に漂うような曲なのだ。旋律ももちろんあるけれど、それがこの曲の生命線でないことは確実に言える。
対して、「Angel's Eyes」は、やはりなんといっても旋律が美しい。歌心もあるし。そこにある種の「気だるさ」が、(主に小野リサの声によって)効果的に付加されているという感じだ。

で、僕は「気だるさ」に敏感に反応するので、どちらも好きなわけだが、他の多くの人は旋律がよくわからない「美貌の青空」には反応しないのだろう。

こう考えてみると、論理的に、もう一つの可能性が出てくる。
「美しい旋律があるけれど、気だるさがまったくないもの」
ここに至って「なるほど!」と思わず膝を打った。
坂本龍一と、その他の日本人の映像音楽家(およびインストの作曲家)と、何故こんなにも聴こえ方が違うのか(あるいは何故坂本龍一以外の人の曲はどれも似たり寄ったりに聴こえるのか)謎だったのだが、わかった気がした。坂本以外の音楽は、殆どが「[+旋律][−気だるさ]」なのだ。僕はずっと今まで「気だるさ」を聴いていたのだ。

そして特に90年代のグートレーベル時代の音楽が特に好きなのも、この時期の音楽が、特に「気だるさ」が前面に出されたものだからだと思う。(「美貌の青空」は95年)

僕が大好きなボサノヴァも、基本的に「気だるさ」がベースにあると思うし、フランス印象派(特にドビュッシー)なんてもう、気だるさそのものだ。

「気だるい」音楽は何がいいかといえば、「飽きない」ことだ。単に旋律が美しいだけの曲は、確かに最初は何よりも感動し、心も揺さぶられるが、三日も続けて聴いていればいとも簡単に飽きてしまう。何年か経ったあとに「また聴いてみよう」ともあまり思わないのではないか。(たとえば「○鳥の湖」とかは、人生で5回も聴けばもう十分な気がする・・・)
それに対して、上述の「気だるい」音楽は、三日聴いても全然飽きないし、何年越しかで聴いても、驚くほどの新鮮さでもって再会することができる。(「美貌の青空」はそんな風にしてもう8年ほど聴き続けている。そして全く色あせてこない。

・・・と、ここまで書いておいて何だけれど、まあ、これはあくまでmusicienの個人的な好みについて当てはまるだけのことなんですが(笑)

要するに、大仰な、濃ーいメロディで「どうだ〜!!」という音楽は苦手なんです。チャイコフスキーとかが。